9月 ① 声をかけられる
高石宏輔さんの「声をかける」という本を読んだ。
男の人がひたすらナンパをして、そうして出会った女の子たちとのお話。なんだか身体の輪郭がぴりぴりするような本だった。苦しくなるから何度も読むのをやめて、お茶を飲み、落ち着いてからまた読むのを繰り返した。
名前も知らない、ある男の人のことを思い出した。
「お姉さん、はやく走れそうな脚してるね」
その人は渋谷のForever21の前あたりで声をかけてきた。その日の私は、お母さんのお下がりの黒いヒールを履いていて、いつもより少しだけ背筋がしゃんとしていた。
振り返った。その人の声はなんだか不思議だった。なんで声かけたのってくらい自信がなさそうで。面白かった。
「私、足遅いですよ」
その日は休みの日だったのかな、お店はどこもいっぱいで。適当なカフェに入って、お話をした。
彼氏いるの?とか大学生?とか色々聞かれて、聞かれるだけじゃつまらないから、その人の話を聞きたいと思った。
彼女と最近別れた話。あんまり渋谷には来ないって話。
そうだ。なんでだか忘れたけれど、私、昔引きこもってたんだよって話をした。そうしたら、俺は昔いじめられてて…って言われて。なんか可笑しかった。今まで声をかけてきた人は、大抵自信満々な感じで、多少強引にでも引き寄せるような雰囲気のある人ばかりだった。この人は違う。対極的な、弱い感じの人。お兄さん、ナンパ向いてないよって思った。
そのあと、バーに行った。その人の仕事の話とかを聞いていた。私の勉強の話もした。少し特殊な分野だから、面白いねって。可愛いラベルのお酒が気になって、ふたりで飲んだ。あんまり美味しくなかったっけ。
帰り際、今度デートしようって言うから、今度でいいの?と返した。主導権は私が握っていた。
肌荒れがコンプレックスなんだって。一緒にお風呂に入ろうと言ったら、断られた。明るいところで見ないでって。変な人。
騎乗位もバックもしたことないって。彼女とは1年半くらい付き合ってたけど。
すごく優しい人だった。痛くないかってあんまりにも気にするから、笑った。
ほんと、向いてないよって思った。
私の左の肩あたりにある傷をさすって、もうしちゃだめだよって言うのが、くすぐったかった。今までそんなこと言う人、一人もいなかったから。
ホテルを出て歩くと、その人が腕時計を忘れたことに気がついた。一緒に取りに行こうと言いかけて、やめた。彼の耳元で、彼女できるといいねと言った。首元の匂いを嗅ぐと、汗とその人自身の匂いがして、胸がきゅんとした。バイバイしてからは、振り返らないで駅まで歩いた。
名前も知らない人。
顔も覚えてないけれど、ベッドの上で私を抱きしめるときの手がすこし震えていたのを、まるで俯瞰していたみたいに思い出す。
どうしてこの人のことをこんなに覚えているのか分からない。
たまにいるんだ。宝物みたいに引っ張り出しては懐かしくなるような人。多分、魂みたいなもののかたちが似ているんだと思ってる。